だれかの夏空

 係長がこっそりイヤホンをしたのを見て、帳簿システムを再起動した。十時になった。打鍵音の先にアナウンサーの実況が聞こえる。一回戦、東海大浦安対東海大相模。東海大付属同士の対戦らしい。漏れていることを耳打ちしても仕方がないので、そのまま旅費請求締め切りバッジを起動した。窓の外はすりガラスみたいに真っ白で、実況がとおくに聞こえた。事実、甲子園は遠い。雲ひとつない晴れ空の様子がよどみなく語られている一方で、関東はまだ梅雨明けしていないという。こんなことは初めてだ、とテレビでお天気キャスターが悲しそうに言っていた。そういわれてみればそうだったかもしれないが、そんなことはない、と言われてしまえばそうかもしれない、と思ってしまうだろう。暑苦しいことには変わりはない。

 冷房が入っている空間でほとんどを過ごしていると、時折季節がわからなくなる。外の景色が梅雨空のまま二か月以上続いていればなおさらだ。まして、ぼくの仕事は毎日ほとんど変わり映えのしない作業ばかりだから、昨日と同じ日がずっと続いていてもきっと気づかず一生を終えてしまう自信がある。だれよりもかすかに、なによりもたしかに。

 小気味よい金属音をとおくで聞きながら伝票のリストを確認すると「そうめん」と書いてあるのが不意に目に入った。氷水できんきんにひやして、しょうがと万能ねぎのはいっためんつゆですすった。縁側でおばあちゃんがすいかを切ってきて、弟と姉に差し出している。ぼくはすいかが食べられなかった。だからそうめんをひとりじめできた。とおくでは東海大浦安がタイムリーヒットで二点を入れているという。めんつゆに氷をふたつ入れた。

 しかしなぜそうめんを買っているのだろう。気になって請求書と領収書のスキャンを確認する。木の箱に入っている二キロサイズのものだった。五五〇〇円。決して安くはないが、そこまでお高いものでもないようだ。有名ブランドのロゴが表面に大きく入っている。費目は交際費。なぜ。そうめんがゆであがっていく。ぼくはそれをざるにあけて氷水で冷やす。マンションの中、シンクにそうめんがおどる。髪の毛より細くてしなやかなめんは、そこそこの高級品だ。その辺のスーパーで買うビニールに入ったものとはまったく違う。めんつゆの「吸い」も違うので、少し薄めに作るのがコツだ。あまり薄すぎてしまうと氷水でさらに薄まってしまうから難しい。それでものどごしはかわらない。おいしいものは、ちゃんとゆでれば絶対においしい。

 とおくの選手がエラーをして、いつの間にか試合は七対五になっていた。東海大浦安が逃げている。係長は祈るような気持ちでパソコン、もとい虚空を見つめている。息子さんは今頃意識朦朧の中ベンチで座っているに違いない。親子ともどもかわいそうだ。ぼくは「そうめん」の備考をクリックした。「営業用贈答品」とそっけなく書かれていた。このそうめんはお得意様に贈られたものらしい。めんつゆに氷は十五個入っている。あれ、多くないか。ぼくは思った。これでは食べきるころには薄くなって、しょっぱい麦茶と味が変わらなくなってしまう。取引先のうすぼんやりとした眼鏡をかけているおねえさんがそうめんをゆでる。しゃっきりとした竹のざるに大量のそうめんが並ぶ。雨どいに使うビニル管を半分に切ってオフィスじゅうにひと筋の流れができ、そうめんが疾走していく。営業のおじさんのぎらついた顔がみえる。ぼくはそのうしろでそうめんをすくう。めんつゆはやたらに濃くて甘い。しょうがとわさびが欲しい。おじさんはうまく箸をつかえないからあんまりそうめんをすくえないようだった。うしろのひとたちも、みんな思い思いにそうめんをすくっては食べ、すくっては食べを繰り返している。経理のおねえさんがざるをあけたまましゃっきりとした顔でぼくを見つめた。ぼくはひとこと「ありがとう」といった。どうして感謝したのだろう。

 すっ、とパソコンの前に戻った。ああ、そうか、係長もぼくも、ひとしく夏のなかにいたのだ、と思ってしまい、感慨深くなってしまった。なぜ。

「負けた」

 イヤホンを外して係長はひとことつぶやいた。東海大浦安がそのまま逃げ切ったらしい。ぼくはひどく味気のない「故郷」に思いをはせた。係長は境川を知らない。猫実という地名を知らない。鉄鋼団地の幅広い工業道路を知らない。きっとディズニーランドしか知らないだろう。それでも浦安という地名はきっと、係長のこころに夏とともにあり続けるのだろう。根拠もなくぼくはそう思い、別にそう思う必要もないな、と思い直した。

 窓に水滴がぶつかっている。

 夏の音はそれでもまだ、とおくでなり続けていた。

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まんまるだましい ひざのうらはやお/新津意次 @hizanourahayao

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